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歳時記



丹生大師
三重県は、旧国名でいいますと、伊勢、伊賀、紀州の3つの国が合併して明治時代に出来上がりました。宝塚古墳は「伊勢の国」では最大ですが、「伊賀の国」にはもっと大きい前方後円墳があるのです。
ですから、三重県最大とは言わないのです。出土した船形埴輪は日本最大で、戦後の考古学史の中でも極めて重要な発見なのに、どうして、古墳の規模そのものは伊賀より小さいのでしょう。重要なことですので、説明します。

 松阪の宝塚古墳が脚光を浴びています。2年前に、ほぼ完全な形をとどめた国内最大級の船形埴輪が出土したのがそのきっかけです。権力を象徴する絹の日傘や太刀、杖。こうした装飾がマストのように立つ船は実に威風堂々としている。丹生水銀の中世、松阪商人の近世と比べ、松阪の古代史は地味な存在でしたが、この発見で面目躍如といったところです。しかし、宝塚古墳に対する評価は、いまに始まったことでありません。
宝塚古墳は、いまから70年も前の1932年(昭和7年)に、伊勢地方最大の前方後円墳(全長約110メートル)として国指定史跡となっています。
ただ、本格的な発掘調査は今回が初めてでした。宝塚古墳は伊勢地方(伊勢平野)最大です。なぜ、「伊勢」地方という言い方をするのでしょう。仁王門

内陸部の伊賀は奈良、すなわち、大和に近く、大和に成立した古代政権の影響下にあったと想定できます。それと比べ、海に展開した伊勢は古代、大和とは異なる海の文化圏にあったはずです。
それがあるとき、大和の政権が日本統一に向け、東方へと勢力を拡大する中、伊勢との関係を強化することの必要性から、伊勢神宮に大和の神・アマテラスをまつったと見ることができます。
伊勢はもとより大和とは別な文化圏でしたが、古代政権の影響力の拡大とともに結びつきを深めていった。
伊賀を含む奈良や大阪など、大和の足元では当たり前のような存在だった前方後円墳ですが、伊勢では「異文化」であったといいほど数の少ないものです。
したがって、豪勢な船形埴輪のあるじは、伊勢の王というよりは、大和の政権と深くつながった王。もしくは、大和政権にこの土地の支配者として認められた人。
松阪は伊勢の国の中にあって伊勢平野の中央に開け、大和と伊勢を結ぶ重要な連絡路(パイプ)上にありました。
大和が東へ東へと勢力圏を拡大していく過程において、この土地に強い政治的影響力を確保しておくことは非常に大切なことだ?と思われます。そんな影響をしのぶあかしが、伊勢地方最大の前方後円墳である宝塚古墳であり、船形埴輪であると考えて間違いはないでしょう。




水銀坑道
看板

松阪は伊勢の国の中にあって伊勢平野の中央に開け、大和と伊勢を結ぶ重要な連絡路(パイプ)上にありました。大和が東へ東へと勢力圏を拡大していく過程において、この土地に強い政治的影響力を確保しておくことは非常に大切なことだ?と思われます。そんな影響をしのぶあかしが、伊勢地方最大の前方後円墳である宝塚古墳であり、船形埴輪であると考えて間違いはないでしょう。
宝塚古墳は、早い時代に国史跡の指定を受けたため、開発から守られてきました。豊かな森となっているため、新緑のシーズンはすがすがしい気分になれます。是非一度、足を伸ばしてみてください。

 



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其の四:宝塚古墳(松阪市) 其の五:斎王まつり(明和町) 其の六:射和祇園まつり

其の九:水屋神社

其の十:水屋神社・後編    

 


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